マンマ誕生の物語
〜運動と食の複合施設ができるまで〜
ここでは、運動と食の複合施設としてマンマビレッジが誕生するに至った経緯や、私たちの想いについて、
代表トレーナー川谷の人生をちょっとばかし振り返りながらお話しさせていただきます。
第1章:茨城のど田舎に病弱の肥満児現る
時は1994年7月8日、茨城県土浦市のど田舎に、川谷家として2人目の男の子が産まれました。
おばあちゃんがつけてくれた【響】という名前にふさわしくかそうでないか、家に響き渡るような騒ぎ声で4つ上の兄といつも喧嘩しては泣かされている子供でした。
おまけにその子は小学生時代、親も友達も認める図体だけがでかい肥満少年でした。
そうです。これが代表トレーナーになる川谷の少年時代の姿です(笑)
写真右側の見事にふくよかな二重アゴが、当時の川谷少年のわんぱくさを物語っています。。。
持久走は嫌い。勉強も嫌い。好きなのはゲームと学校が終わって家に帰って食べるエースコックのスーパーカップラーメン(大盛りw)。
さらに川谷少年は病気にめっきり弱く、ほぼ毎年インフルエンザにかかるわ、原因不明の熱で毎月のように学校を休むわ、とにかく親に迷惑をかけっぱなしの少年時代を送っていました。
そんな怠惰で病弱な生活の末、見かねた母親が自分をスイミングスクールに通わせました。
それを歯切りに、水泳だけでなくサッカーやテニス、水球など、日毎に違うスポーツ教室に通うようになり、持久走万年ビリだった川谷は徐々に体力をつけていき、
気がつけば身長はぐんぐん伸び、そして横に太かった体型が縦にシュッと伸びて、小学校6年生の頃には一般的な子供の体型になっていました。
あの時運動が嫌いになっていたら、今の自分はいなかったでしょう。
そして中学・高校とハンドボール部に入り、中学ではキャプテン、高校ではエースを任されるまでに身体能力は向上していました。
気づけば高校の体力テストでは3年連続で学年1位を取り、3年間無遅刻無欠席の皆勤賞を取るまでに丈夫な身体を手に入れていました。
あの時の川谷にとって、もはや怖いものなどありませんでした(部活の顧問の先生を除き...笑)
第2章:大学で将来を見失った時に出会った師匠、そしてトレーナーの道へ
ところが大学に進学し、その出鼻はへし折られることになりました。
私立の体育系大学ではそこそこ有名な、千葉県にある順天堂大学のスポーツ健康科学部に進学した川谷は、大学でも活躍してやろうと意気揚々とハンドボール部に入部しました。
すると、同じ学年で入部した同級生はみんな、高校時代関東上位や全国大会を経験している強豪校出身揃い。
県大会3位になったくらいでブイブイ言わせていた川谷のレベルでは、到底歯が立たないメンツの集まりでした。
結果自分は3年生まで大事な試合でユニフォームを着ることもできず、ベンチにも入れず、応援席でただ同級生の活躍を見ることしかできませんでした。
その時初めて、"自分にはこれ以上スポーツの世界で上に上がることはできない"ということを思い知らされたのです。
ただ、もはやスポーツ以外やってこなかった川谷にとって、スポーツを取ったら自分に何が残るのか?自分は大学を出てしまったら何者になれるのだろうか?
自分自身の将来の行く末が全くを持って検討がつかず、行き場のない不安を何かにぶつけることさえできず、ただひたすらに人生の夏休みと揶揄される大学時代を抜け殻のように過ごすことしかできませんでした。
そんな時に、川谷の人生を変えてくれたある師匠に出会います。
名前は川崎章宏さん(アキさん)。
茨城県の笠間出身で、現在はアメリカ4大バレエ学校と称されるヒューストンバレエアカデミーにて、プロバレエダンサーの卵を養成するトレーナーをしている方です。
アキさんとの出会いは大学2年生の時、競技者としての道を諦め、それ以外自分に何かできることはないのかと、闇雲に情報をかき集めている中でふと知ったトレーナー向けの勉強会に参加したことがきっかけでした。
当時唯一の学生で参加していた川谷に対して、アキさんは心優しく接してくれ、セミナーの後自宅に招き入れて夜ふけまで語り合ってくれたり、何かあれば連絡をくれて色んな勉強の機会を与えてくれたり、まるで実の弟のように可愛がってくれました。
そんなアキさんの背中を見て、トレーナーという仕事の魅力を知り、『トレーナーに俺はなる!』とルフィばりに心に決め、将来トレーナーになることを決意したのです。
第3章:研究と現場で日々しばかれ続けた駆け出しトレーナー
ですが、トレーナーになると決めたはいいものの、自分自身トレーナーの経験もなければ、他より秀でたトレーニングの知識も技術も何もない。
そう思った川谷は地元茨城に帰り、子供の頃からの憧れだった筑波大学院の体育学専攻に進学することを選びました。
それと同時に、東京でパーソナルトレーニングジムを経営するもう1人の師匠の元に弟子入りし、1人前のトレーナーになるために修行を始めたのです。
研究の世界で身体に関するより深い知識を学び、現場の世界でお客様により成果を出せる技術を習得する、この両立をすることが自分が成長するための一番の方法だと考えたわけです。
ですが、研究と現場の両立はそう甘くは決してありませんでした。
大学院の研究では、授業に加えて研究発表や読めない英語の文献をまとめる作業に追われ、一生懸命作ってきたプレゼン資料に対して教授や研究員の人からボロカスに指摘される日々。
東京の現場では、絶対成果主義を貫く師匠から毎日のようにLINEが来て、『お客さんの成果は?』『今月新規はあと何人取れんの?』と詰め寄られる日々。
(時には深夜でもお構いなく電話がかかってきて気づけば午前3時になっていたことも...)。
あの時の正直辛かった日々を思い出せば、部活で味わってきた苦労や他の全てが可愛く思えるほど、毎日が壮絶で満身創痍でした。
だけど、アキさんと夜通し語って約束した夢を、こんなところで諦めるわけにはいかない。
川谷は必死でした。そしてなんとか耐え抜きました。
何者にもなれない自分になることだけは、なにがなんでも避けたかったのです。
そして約2年の修行期間を経た頃には、大学院で海外ジャーナルに載るレベルの修士論文を書き上げて、
東京のジムでは全く知り合いも人脈もほぼ皆無でしたが、自分の担当曜日は朝から夜まで予約いっぱいの状態になっていました。
第4章:初の起業はたった1年で壊滅。周りから見放され絶望の淵へ
転機が訪れたのは、大学院2年生の頃でした。
あるトレーナーさんの声掛けで、つくばにジムを出そうというプロジェクトが発足しました。
当時のつくばにはトレーナーが活動できるようなフィットネスクラブやジムはほとんどなく、地元が茨城だけど県外を出て活動するトレーナーが少なくありませんでした。
そんな中で、『地元に還元するために地域の健康作りに貢献したい!』と集まってくれた当初3人のメンバー(全員フリーランスのトレーナー・インストラクター)と川谷を含めた4人で、つくばにフィットネスジムを立ち上げることになったのです。
川谷は当時まだ学生にも関わらず、想いの強さだけでなぜかプロジェクトのリーダーに抜擢され、開業資金なんてものはもちろん持ち合わせてなかったので、
その時はまだ物珍しかったクラウドファンディングを行い、死に物狂いで支援を募り、なんとか100万円の資金を集めて無事にジムをオープンすることができました!
ですが見出しにもある通り、そのジムはわずか1年も持たずに畳むことになってしまいました。
原因は明らかでした。
一つは、川谷がまだ起業の"き"の字も知らないズブの素人だったこと。
二つ目は、同業のトレーナー仲間との意見の食い違いがあったこと。
そして極め付けは、当時2階にあったジムの真下にある1階の飲食店から、毎日毎日毎日毎日『足音がうるさい!』『お客さんが迷惑してる!』とクレームの嵐が絶えなかったことです。
(クレームを言ってきた女将さんの今にも飛び出そうなギョロっとした目玉は思い出すだけで血の気が引きます...)
プロジェクトに対してお金を支援してくれた方々には全員に対して謝罪をしましたが、中にはガッカリされてその後連絡もつかなくなった、大変お世話になったトレーナーさんもいました。
いつか地元で起業したいと、学生の分際で夢高らかに謳っていた若造の背中を押してもらい、たくさんの人々を若気の至りに巻き込んで、勢いで始めたプロジェクトをこうもいとも簡単に崩れさせてしまった。
罪悪感と不安感と、お世話になった人たちに見放される恐怖で、ついに川谷は言葉が上手く出せなくなってしまいました。
後で調べてみると、いわゆる失語症状というやつで、過剰なストレスがかかり鬱状態になると発症するようでして。
言葉で伝えたいのに伝えられない。頭にある言葉が口から喉元を伝って出てこない。
そんな地獄のような負の迷路に迷い込んでしまい、一時は死を意識するまで追い込まれていきました。
さらには、ストレスによって食事も乱れに乱れ、食べたら太ると分かっているものばかりを無性に欲してしまい、アイスやお菓子、お酒など際限なく食べました。
もちろん体重も増え、体型も徐々に崩れていき、トレーナーという仕事をしているのにこんなことして良いわけがない。
そう分かっていても、話してストレスを発散できない当時の自分にとって、食べることでしかこのストレスを紛らわす手段がなかったのです。
ある意味ではこの時が、一概に栄養学や食事療法だけではカラダは変えられないと誘った出来事だったのかもしれません。
第5章:救いの手をくれた食のプロ、運動と食の力を信じ共に再出発
そうした絶望の渦中にいた川谷に、ある1人の女性が救いの手を差し伸べてくれました。
それが今スタジオを一緒に切り盛りする、田野島万由子という女性です。
プロジェクト発足時、地区の商店会に招待されて知り合った田野島は、若気の至りで起業した川谷を見るな否や居ても立ってもいられなかったのでしょう。
度々スタジオに訪れては差し入れをしてくれたり、川谷が不安そうな顔をしていたら外に連れ出して相談に乗ってくれたり、色々な仕事のアイデアや集客の方法を一緒に考えてくれたり(時には喝をいれるために叱ってくれたりw)
干支1周分も歳が離れた彼女の母性と、なんとかしてあげなきゃという想いに惹かれ、川谷は田野島と一緒になることを決めました。
彼女も自営業を始める前のOL時代、職場の上司からいじめを受けたストレスでご飯が食べられなくなり、鬱状態を抱えた経験がありました。
その状態を救ってくれたのが、当時田野島のお母さんが作ってくれたごく普通の野菜スープだったそうです。
唯一それだけは喉を通り、少しずつ鬱を克服して、最終的にその職場を辞めて今の食を通じた自営業の道に踏み切ることにしたと言います。
川谷は運動によって生きる活路を見出し、田野島は食によって人生を救われた。
そんな2人が出会ってしまったのだから、これはきっと運命なのだと。
川谷も少しずつ少しずつ、失語症状を克服し、思ったことが話せるようになり、そして大学院卒業とほぼ同時に、田野島と共に今の会社(株式会社ORIGINESS)を立ち上げました。
そして2019年7月1日、つくば市横町に運動と食の複合施設【マンマビレッジ】が誕生しました。
最終章 〜私たちが本当に届けたいもの〜
私たちがマンマビレッジを通して地域の方々に届けたいもの。
- 痩せて綺麗になれる
- 引き締まったカラダになれる
- 膝の痛みや腰痛に悩まされなくなる
- 料理の腕が上達する
- 料理のレパートリーが増える
そういった価値はもちろんお届けしたいと思っています。
ですが、もっとその先にある、人生の豊かさを届けたい。
ダイエットに成功することで、痛みや不調に悩まされなくなることで、料理が上手くなることで、その人にとってこれまでよりももっともっと豊かな人生を歩んでほしい。
不健康が理由でやりたいことを諦める、自分にはできないことだからと自分自身の可能性を否定する。
そんな人を1人でも減らして、もっと自分に自信を持って、もっと自分のやりたいように人生を長く豊かに生きてほしい。
それが私たちの何よりの願いです。
最後までお読みいただき、川谷のお粗末な話にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
ここでページを閉じていただいても構いませんし、もし少しでも話を聞いてみたい、相談に乗ってほしい。
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